大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所金沢支部 昭和29年(ネ)249号 判決

主文

控訴人等の本件控訴を棄却する。

原判決中、主文第三項第六項を左のとおり変更する。

控訴人等(被告、附帯被控訴人)は連帯して、被控訴人(原告、附帯控訴人)に対し金十五万円及びこれに対する昭和二十六年七月二十二日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払うべし。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを四分してその一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人等の連帯負担とする。

この判決第二項及原判決主文第四項は仮に執行することができる。

事実

(省略)

理由

控訴人等主張の本案前の抗弁が理由のないものであることは、原判決理由の説明するとおりであるから右理由を引用する。

よつて、本案について審究する。

一、離婚請求についての判断

真正に成立したものと認める甲第一号証(戸籍謄本)と当事者の合致した陳述によれば、被控訴人は昭和十九年十一月七日控訴人清水厚と結婚式を挙げ、翌二十年三月六日婚姻届出をなし、現に法律上の夫婦であること、この間昭和二十年十一月十七日長男治一が、同二十三年三月二十七日長女加代がそれぞれ出生したことが明らかである。

原審における被控訴本人尋問の結果により真正に成立したものと認める甲第二号証(被控訴人の手記)に、原審証人柳沢伊柳、金森繁、大島ナミ子、滝波久尾、原審並びに当審証人深谷きよ江の各証言、原審並びに当審における被控訴本人尋問の各結果、原審における控訴人山本守男尋問の結果の一部を合わせ考えると次の事実を認めることができる。すなわち、被控訴人は、土木請負業を営んでいた父深谷太一と母きよ江の長女として生れ、福井市立実科女学校卒業後、訴外西田勇及び滝波久尾の媒酌で、当時明治大学政経科に在学中の控訴人守男と前記結婚式を挙げ、しばらく控訴人等の肩書住所地で夫の両親である控訴人邦夫及びやす等と同居していたが、昭和二十年三月控訴人守男が応召入隊したので一時実家に帰り、同年九月夫厚が復員し、まもなく同県坂井郡高椋村四ツ柳で工場を買受け、精米製粉業を経営するようになつたので、被控訴人等夫婦は両親と別居して同所に移り住むにいたつた。四ツ柳に移つてからのしばらくは、被控訴人等夫婦の仲は円満であり、姑やすも時折被控訴人等の新家庭を見廻りに来たが、嫁姑の間には格別の風波はなかつた。ところが、不幸にも福井市の被控訴人の実家は、昭和二十年の空襲で焼失し無一物となつたうえ、同年十二月には被控訴人の実父太一が死亡するにいたつたため、婚家に対して十分な附届け等ができなくなつたところから、やすはこのことが不満で「お前の家のような貧しい家を親戚だなどというのが恥しい。もつとよい家から嫁は貰えるものを」などと被控訴人につらく当るようになり、はては「お前のような者にはあきたから早く出て行け」と叫んだこともあり、昭和二十二年八月旧盆で被控訴人が長男治一を連れて実家に帰つたところ、控訴人守男が知らないのに控訴人家から媒酌人の滝波久尾を通じて「控訴人方から迎えがあるまで帰るな」と伝えて来るにいたつたこともあつた。しかるに、控訴人守男はかように嫁姑の折合が悪化して行くのを見ながら、両者の融和を計る適切な措置を採らなかつたばかりでなく、むしろ母親の肩を持つような態度であつて、愛情を以て被控訴人を庇護するようなことがなかつたため、自然夫婦仲も次第に円満をかくようになつた。昭和二十三年七月頃被控訴人は、長男治一が病気で福井市中村医院で治療していたので、看護のため乳呑児の長女加代を連れて実家に帰つたが、病気の経過がよくなかつたので、そのまま実家に滞在し帰宅が遅れたところ、たまたま当時は福井地方の震災で倒壊した控訴人守男の住宅を再建するため大工等が出入して忙しい折であつたので控訴人等は大いに怒つて、同年八月十四日控訴人邦夫は被控訴人の実家を訪れて、被控訴人に対し、「今度という今度は山本家へ帰つて来るな。お前は仕事がいやなので、そうして実家でぶらぶらしているのだろう。」となじつて、帰宅を拒んだ。被控訴人としては、当時帰宅の遅れる事情については夫守男に通知したが、これに対しては何等の返事はなく、まして守男の方で倒壊家屋の再建をしているとは露知らなかつたこととて、事の意外に驚き、訴外柳沢伊柳等にとりなしを依頼すると共に、同月二十五日被控訴人は控訴人守男に面会して、その真意をただしたところ、「親子の縁を切つてでも来る気があるならば来い、もし両親が入れない時は自分も親子の縁を切る」とのことであつたので、これに力を得て同月三十一日被控訴人は二人の子供を連れ、四ツ柳の被控訴人守男方に立ち帰り、折柄居合わせた控訴人邦夫及びやすに対して、ふつつかを謝し、「以後は控訴人家の女中として子供等の傍で生活させて下さい」とまで言つて飜意を哀願したが、頑として聞き入れられず、それでも一両日同所で辛抱したが、この間「お前に食べさせるのではない。子供に乳を与えるため食べさせるのだ。」と一椀の食事を与えられるに過ぎなかつた。しかも、被控訴人が最後の綱とたのんで「親子の縁を切つて来たのだから、いまさら実家に帰ることもできない。」と訴えた控訴人守男からも、「もう絶対に駄目だ。諦めて呉れ。」と前言を飜えされるにいたつて、被控訴人はついに絶望して福井市の実家に立ち帰えるほかはなかつた。その後も叔父金森繁等を通じ、控訴人等の反省を求めたが、容れられず、あまつさえ昭和二十四年五月控訴人守男は両親の勧めにより、訴外西村恵子と結婚し、翌二十五年三月には男子を儲けるにいたつたのである。原審証人木内伝の証言及び原審における控訴本人山本邦夫、同山本守男、当審における控訴本人山本やすの各供述中、右認定に反する部分は、前示挙示の各証拠に照し措信することができない。

以上認定の事実によれば、控訴人守男の所為は、民法第七百七十条所定の悪意の遺棄及び不貞な行為に該当するものというべく、従つて右事由に基く被控訴人の控訴人守男に対する本訴離婚請求はその理由あるものというべきである。

二、子の監護及び親権者の指定についての判断

この点についての当裁判所の判断は、原判決の理由に説示するところと同一であつて、当審における新らたな証拠資料によつても、右判断を変更すべき特別の事由はないので、この点に関する右判決の理由をここに引用する。

三、慰藉料及び財産分与についての判断

この点についての原判決説示の理由を援用し更に之に加え、前記離婚原因事実及び当審における被控訴本人尋問の結果によつて明らかな次のような事情、すなわち、被控訴人は昭和二十八年十月から第一生命保険株式会社福井支店の保険外交員として勤務したものの、二三ケ月後には勧誘先がなくなつて退社、その後一時女中奉公に出たが、昭和三十年一月末からは福井市の実家で、母きよ江、長男治一と三名で、被控訴人の和洋裁の内職、貸間賃、母きよ江の手内職等一ケ月約五千円位の収入によつて、辛うじて生計を支え、長男治一の成長を只一の楽しみとして、もはや再婚の望みを絶つていることと等を合わせて考慮すると、被控訴人に対する慰藉料は金十五万円、その分与を受くべき財産は金三万円とするのが相当である。

したがつて、右金員支払についての被控訴人の本訴請求は、控訴人等に対し連帯して慰藉料金十五万円及びこれに対する本件訴状訂正申立書送達日の翌日に当ることが記録上明白な昭和二十六年七月二十二日以降支払ずみに至るまで年五分の割合による民法所定の遅延損害金及び控訴人守男に対して財産分与として金三万円の支払を求める限度において正当であるからこれを認容するが、その余の請求は失当として、これを棄却しなければならない。

されば、これと異なる原判決はこれを右のように変更することとする。よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十六条、第八十九条、第九十二条、第九十三条を、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 石谷三郎 沢田哲夫 岩崎善四郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例